この言葉から浮かぶのは自己犠牲ありきの努力ではないでしょうか。
「つまらない欲望を振り切るから道を極められる=その姿は美しい」。
こんなイメージがあります。愛を極めたナイチンゲールは愛されたいならまず許しなさいと言いましたが、この言葉にも、たいていの人が自己犠牲を感じるでしょう。
書道も同じようなイメージがつきまといます。
「一番書いた時は一回の展覧会のために千枚練習しました」なんて言うと、たいがいの人は「そのぐらい書かないと極められないんだね、私には無理」と首を振ります。やったことがない人には、修行も自己犠牲の一種にしか見えないようです。
当の私はといえば、楽しくて書きまくっていたら、いつの間にか夜が明けていたという感覚なのですが…。だからこそ、ナイチンゲールは眉間にシワを寄せて、愛を尽くしたわけではないと思えるのです。楽しくて夢中になれると感じたことをひたすら続けてきたはず。もちろん、義務でも自己犠牲でもありません。欲望を捨て去るどころか、むしろ欲望の固まりじゃないと極めたいという気持ちは生まれてこないでしょう。
辛そうに努力した方が価値があるように見えるのは、私たちの心に武士道が根付いているせいかもしれませんね。だから、こういう話をすると、なんて軽々しいと眉をひそめる人も確かにいました。
でも、私はやっぱり、「我を忘れるほど楽しめることを見つけて極めてみませんか?」と言ってしまうのです。
(2005/05/01 近代中小企業)
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